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数学と社会の架け橋<数学月間>

7月22日--8月22日は数学月間(since2005)です.日本数学協会は,2005年に,7月22日ー8月22日を数学月間と定めました.この期間は,数学の基礎定数 π(22/7=3.142..) とe(22/8=2.7..) に因んでいます.この期間に,数学への関心を高めるイベントが各地で開催されるよう応援しています. The period of July 22nd to August 22nd was set as "Maths Awareness Month of Japan" by the Mathematical Association of Japan (MAJ) in 2005. These dates are derived from two mathematical constants: Archimedes' constant pi(22/7=3.14) and Napier's constant / Euler's number e(22/8=2.7). Maths Awareness Month of Japan is run on a voluntary basis by the Maths Awareness Council. During this period we support various events for raising the awareness of maths throughout the country.

数学と社会の架け橋=数学月間(7/22-8/22)社会が数学を知り,数学が社会を知ろう!
このブログの更新はしばらくお休みしています。どうぞ
NPO法人数学月間の会(SGK)  https://sgk2005.org/ の方にお越しください。

「世界ハ大学校ナリ。良ク注意観察スル時ハ、事々物々、何モノカ学問トナラザラム。学問ノ成否ハ、専ラ学ブ人ニ属スベキナリ。」同感、勉強は自分でするものである。

◆アナロジーについての一考察
「思考力ヲ用イザレバ、実際ニ活用スルコト能ハザルナリ」
落語の“死神”(円朝作、翻案物)を聞いて、物質を構成する原子のスピンの向きを揃えると、物質の温度が下がらずを得なくなる“断熱消磁“*)という物理現象を思い浮べる。教授が黒板いっぱいに数式を1時間も書き続けた挙句、「こうなります」という講義が多かった。しかし、私なら一言ですむ「本質は、”死神“と同じだ」。志ん生が一言吐く台詞の方が、余分な“くすぐり”により主題をぼかしてしまう馬鹿な落語家の演出より遥かに効果的だ。それは、志ん生が、この話の眼目は何か、その場面の人物の心は何かを、的確に把握しているからだ。科学の異なる分野の現象が、同じ数学形式であることはしばしば見受けられる。数学は、現象の本質を抽象化し記述する武器である。だいぶ脱線したが、森羅万象に、アナロジーの構造があるので、初対面のものは、自分が良く分かるアナロジー物に置き換えて理解するとよい。身に付けたものしか応用が利かない。「思考力ヲ用イザレバ」である。一言で本質を述べる講義をすべきだ。細かい数式などは自習させればよい。


*)断熱消磁とは、極低温を作る方法。常磁性物質を構成する原子の電子スピンは低温で向きがそろう性質がある。外部から熱の出入りを遮断した空間内に物質を置き、磁場を印加しスピンを揃えておく。その磁場を切ると、スピンの向きは乱れ、周囲の熱を物質が吸い取ることになる。こうして周囲の温度が下がる。
「水晶の簾動いて微風起こり」という表現は、風が起きて簾が動くのか、廉が動いて風が起こるのか? がまの油売りが、「鐘が鳴るやら撞木が鳴るやらトンと判らぬが道理」というが、その因果律は? 
その心配は無用。量子の世界ではこれらは同時に起こるのである。

ミス・サリバンは20歳そこそこですばらしい教育者でした。つまり、ヘレンを甘やかすのはよくない。自分以外の人の気持ちを感じ取れる心をもたせる。へレンがわがままを通せているうちは、人を大切にしたいとも思うことはない。
ミス・サリバンの努力はすごい。このような辛抱強い教育者に、私はとてもなれない。尊敬します。やがて、ヘレンは人形を可愛がるようになる。愛することを感じ取らせ、周りの物すべてに名前があることを理解する。

物事の理解は、自分手持ちの内容を介してなされます。従って、自分手持ちの内容によって、どんなにすばらしいことを聞いたり読んだりしても共感を呼ばぬこともあります。自分の周囲に実在するものを、自分の内部に取り入れて初めて実存となり自分のものとなります。同じ外界の事物を見聞きしても、身に着け方は様々です。各人各人の感性にあった取り入れ方がなされれば、それがどんなものでも良いと思います。自分の身に着いたものは、どんなに些細なものであってもきっと役に立っていると思って楽しんでいます。あせってはダメです。世の中、不思議でわからないことばかりですからね。高橋是清翁も「思考力ヲ用イザレバ、活用スルコトアタワザルナリ」と言っている。

私はこの*夏休みを利用して、ソ連を旅行して来ました。この旅行は、実は新婚旅行でもあったのですが、それは後半で 詳しくお話しいたします。まず始めに、なぜソ連を旅行してみたくなったのかをお話ししましょう。

私は大学に入学した時、第二外国語としてロシア語を選択しました。当時は宇宙競争でソ連が米国にかなり差をつけていた頃で、「理科系の人はロシア語を第二外国語として選択しょう。」というビラが高校まで回って来たほどでした。後でわかった事ですが、このビラは玉木英彦先生が発行したものでありました。ビラの薦めに従い、私は大学では玉木先生の ゼミに入ってランダウ、リフシッツの量子力学などをロシア語で読んだりすることになりました。その後、結晶の対称性の問題を専門とするようになりましたが、この方面はソ連に伝統があるのでロシア語がまあ役に立つています。十九世紀の初めに、ソ連には、フエドロフ、シュブニコフ、べーロフなどという大天才が輩出し、古典的な数理結晶学の基礎概念が出そろいました。今日でも、群拡大の理論などの抽象代数学の手法をとり入れて、主にソ連の結晶学者がこの分野で活発に研究を続けています。このような風土を見てみたいと思ったのです。今度の旅行でわかったのですが、ソ連の夏は日本の秋のようなものです。コスモスなどの可憐な花が咲きみだれています。この短い夏が過ぎるとすぐに雪が降りだし、長い冬がやって来ます。人々は部屋の内で、際限なく操り返す幾何学模様のカーペットを見つめて生活するのでしょう。 美しいカーぺットを見つめていると別の世界に引き込まれるような気がしました。
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さて旅行の話にもどりましょう。私達は八月二十三日に、ソ連船ハバロフスク号に乘って横浜からナホトカへと向いました。船というものは乗客同志がすぐ顔見知になります。実習で乘っていたウラジオストーク大学日本語科のアブラメンコ・セルゲイと知り合い、船長室へ連れて行ってもらいました。 「これは私達の新婚旅行です。もしできることでしたら、船長さんに紀念のサインをいただけませんか。」とお願いしました。そのときのゾルキン船長の笑顏は忘れることができません。「まだ結婚式をしていないのか、それではホールで正式な結婚式をしてあげよう。詳しいことは明朝の会議で決めるが、たぶん明曰の夜九時ということになるだろう。」とサイン一つをもらうつもりが思ってもみない大変なことになり、よくお礼を言って船室にもどりました。私達の船室は二等でしたが、夜になって乘客係が来て船長がもっている貴賓室に移動させられるというハプニングもありました。そこはトイレの外にシャワーもついているのでした。船長の厚意に感謝して一夜を過ごしました。ところが翌日になって難しい問題が一つ起きました。結婚式の最後にタンゴを踊れという船長の希望です。これはなんとかしなければなりません。ダンスの「ダ」 の字も知らない私達でしたが、運の良い時は良いもので、折よく乗り合せていたダンスの先生が見つかり、特訓を受けることができました。私はとても覚えが悪いので、今晩には間に合わないと先生や見物の乘客逹はだいぶ心配したという話です。 あとは度胸でやるよりしかたがありません。夜九時になると、「日本人の結婚式がホールで行なわれる。」という放送があり乘客がホール一ぱいに集り式が始まりました。船長が結婚証明書を読み上げ、我々の意志の確認を行ないます。我々はそれぞれ「ダー・力二エシュナー」と答えます。そして証明書にサインして船長とシャンペンで乾杯します。その後、乘員や知らない乘客の人達からいろいろな贈り物を戴くのです。 これにはとても感激しました。乘員から戴いたタテの裏面には実習生のセルゲィが苦労して書いた日本文もあります。その文を書くためにセルゲイは私の持っていた露和辞典を一晩かかえこむことになったのでした。食堂の女性達は特製の大きなケーキをプレゼントしてくれました。そのうちに、ロシア人の乗客達から「ゴーリコ!ゴーリコ!」という声と拍手が起こり、だんだん強くなります。これは「にがい!にがい !」という意味で、我々はうんと甘くする義務があります。 つまりキスをしろということで、これをやらないと礼儀に違反しますので,やむをえず、二度ばかり行ないました。これ は乗客の皆様へのサービスです。この後も、にぎやかな歌や ダンスが夜遅くまで続きました。私は、たまたま乗り合せた知らない人達から、こんなにも厚意を受けるものかと嬉しくなりました。帰国後も、その時知り合った日本人の乗客の方々から結婚式の様子の写真が送られて来たりして人情の厚さをしみじみ感じております。モスクワ、レニングラード、キエフと旅行しましたが、ソ連の人々は非常に親切で楽しい旅 行でありました。

*青空(1980)に掲載

卒業後50年の今日の状況を,当時想像できただろうか.2011 ・ 3 ・ 11には,最悪の原発事故が日本でも起きた.格納容器から環境に出てしまった放射能は拡散のー途,故郷も里山も海洋も変わり果てた.このような原発事故がこれほどすぐ起きるとは思わなかったが.通常の原発稼働で生まれる高レベル使川済み核燃料や,その再処理による環境汚染が生活を脅かし,原発だけはやめたいと常々思っていた.それ故に今回の事故には大変がっかりしている.
1.高校2年の学園祭
高校2年(私は地学がやりたくてE組にいた)の学園祭に遡る.私は,学園祭の展示に「原水爆実験反対」を提案し.賛同を得た仲間と準備を始めた.「米国大使館に行ってみよう」と思い立ち,数人の仲間と出かけたことがある.我々の学年は,1年で60年安保(6月に樺美智子さんの死)に出会っている.米大使館に行ったのは.全くの野次馬で,案の定,資料も何も見られず.入り口で帰って来た.私は,その直後,体育の授業中に目を怪我し,手術,ひと月近く学校を休むことになる.学校へ出てみると,とっくに学園祭は終わっていた.携帯電話もない時代のこと,仲間に何の連絡もできず休み,学校に出るとすっかり浦島太郎状態だった.淡い青春の想い出である.
2.福島原発建設時の想い出
大学院に進学した1968年の夏休.巡検で三陸海岸まで行った.まだ.高速道路もできていない頃だ.随所でトンネル工事が行われ未舗装の道もあった.ジープに東大地震研と書いてあるためか.パトカーに出会っても止められることもなく,敬礼して迎えられ愉快だった.平(現.いわき)から.相馬へ向かう途中,大熊町・双葉町を通る.車で樹木の道を半日走っても数軒の集落に出会う程度だった.後日知ったことだが,福島県は,当時.ここを県のチベットといい.積極的な原発誘致を進めた.福1の1号機(GEのBWR)は,格納容器の据付が終わり耐圧試験に合格した直後(2号機の原子炉設置許可も下りている),福2の富岡・楢葉・浪江町では,反対運動が起きていた頃である.
3.高木仁三郎さんとの出会い
私が,高木仁二郎さんにお会いしたのは.ライト・ライブリフッド賞受賞(1997)後の癌療養中の頃である.高木さんは普段通り講演をされた.私は,1995年に.高木さんの著書「宮沢賢治をめぐる冒険」の北海道新聞・書評を書いたことがある.この本は,原子力資料情報室の市民科学者として活躍した仁三郎さんが,科学(芸術も)をわれら農民のものにと羅須地人協会に打ち込んだ賢治に重なって見える良書である.原発だけは止めたいと思ったが,大手メディアは冷淡であった.私は,X線や中性子(原子炉利用)の実験をし.放射能汚染を完全に閉じ込めるなどは絵空事であると実感している.
4.原発は複雑系
原発稼働が無理であることはもはや隠しようがない:
(I)除染をしても処理場はなく,処理の目途のない使用済み核燃料を多量に抱え込んでいる.100万kwの原発を1日稼働すると,約3.7kgのウラン235が核分裂し.おびただしい放射性核種が生まれる.
(2)通常でも被曝労働が原発稼働を支えている.年間6万人を超す被曝労働の人海戦術で維持せねばならぬ原発とは何だろうか.
(3)環境への拡散.食品汚染.小児ガンの増加も隠しようがない.

原子力の莫大なエネルギーと時間は.ともに生命のスケールに合わない.山火事は最悪でも白然鎮火を待つことができるが.原発事故は自然鎖火を待つことができない.
原発のシステムを,その構成要素(装置ユニット,エージェント)を結ぶネットワーク(グラフ)として記述したとすれば,多くの線が集まるハブとなる節点がいくつかあり,複雑系の特徴をもつグラフが得られるであろう.もしハブが攻撃されれば.障害は雪崩となってシステム全体に広がる.事故のトリガーとなるのは,地震・津波だけではないのである.原発をなくして普通の生活ができるようにしたい.(2012.11.23)
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谷 克彦:民間企業の研究所で,放射光を用いた材料分析などに従事した.

現在は,数学と社会の架橋=数学月間のボランティア活動(SGK世話人)をしている.
数学月間の会(
SGK)は,毎年,数学月間の開始日722日(22/7≒π)にイベントを開催している.

連絡先:sgktani@gmail.com

注)戸山高校卒業50周年記念誌(2013.8発行)p.92に掲載した.

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